東京、春。
青年・桜乃 樹(さくらの たつき)は、舞い散る桜の花びらの中、ぼんやりとしていた。
フェンスとコンクリートで硬く護岸された水路沿いの川べり、陽光降り注ぐ満開の桜並木の下。なすすべなくぼんやりとしていた。
つい先程まで目の前にあったはずの、恋人(と言って良かったのだろうか…)・白波瀬(しらはせ)の少し小さな背中は、今は視界にない。それはぼんやりしているから見えないのではなくて、もういないのだ。
「……時間は流れてるんだよ、桜乃君。いつまでも変わらないものなんて、無い。君といられた時間は楽しかったけど、それももうおしまい」
「そうか……」
「さよなら」
芽吹野(めふきの)町、秋。
少女・楓 ゆづき(かえで ゆづき)はぼんやりとしていた。
都会では、そろそろセット時刻通りにライトが灯り始める頃。この田舎町を囲む山の裏側へ、ゆっくりと進む陽の光の中。
川べりでは水面(みなも)へと続く砂利、そしてそこへ伸びる土手の草も、夕日に染まっているんだろうな。ふいにそんな事を考える。
そして友人の藤倉 和(ふじくら なごみ)がもうすぐ迎えに来るであろう事を少し予想しながら、放課後のひとときを何をするでもなく、中庭で静かに過ごしていた。
猫がこちらへ向かって来る。
なでる。
大きく鳴くこともなく、猫は静かにしていた。
彼女も静かにしていた。
同じ頃、青年は芽吹野町の自宅で布団にくるまりながら、言いようのない閉塞感に襲われていた。
故郷に戻ってから何をするでもなく過ごす日々の中、繰り返される感覚。 思い出すのは、光と桜並木。
そして「さよなら」だ。
大きく息を吐くと、彼は寝返りをうった。
芽吹野町、朝。
「学園祭の招待券だよ。それでね、明日はお昼休みが終わった後、悠たちの劇があるのっ」
もう冬も近いんだな。
少し肌寒い空気の中、普段なら寝ている時間に、青年・樹は起き上がった。
そして、従姉妹・桜乃 悠(さくらの ゆう)が昨日言っていた言葉を反芻した。
「じゃあ、樹ちゃん、ぜったいぜったい、ぜぇぇっったいにぃ来てねっ!」
芽吹野町、桜鈴学園図書館、朝。
まだ誰も来ていない学園の、しんとした図書館。
区切りのいい場所まで予習し終えた事を、参考書のページを繰って確認すると、悠のクラスの委員長・藤倉 和(ふじくら なごみ)は、ふぅ、と息を吐いた。
学園祭だからといって、勉強を休む理由はない。
これまで続けてきた習慣を変えるのも落ち着かないし、何より最も勉強に集中できる朝のひとときを無駄に過ごすのが、我慢ならなかった。
だけど今日のこれからは、いつもと少し違う日だ。
私も制服から着替えたり…。
まあ、せっかくだから楽しもう。
図書室の窓から見える空は、秋の色を色濃く湛えていた。
東京から逃げるように故郷へ戻ってきた主人公・樹と、その小さな町の、小さな女学園に通う悠・和・ゆづき。
それぞれの時間を、それぞれのペースで過ごす彼らは、秋色の空高い芽吹野町、桜鈴学園で出逢う。
或いは学園祭というイベントのせいかも知れないし、彼らが心のどこかで、何かを変えなくてはと考えていた為なのかもしれない。
とにかく、桜鈴学園の教頭であり、悠の父親でもある伯父が入院し、樹はその代用教員として学園へ通うことになった。
その彼を兄のように慕う悠は、父親の体調を気遣いながらも主人公の近くにいられることを喜んだ。
皆の信頼を集め、教頭先生を尊敬し慕っていた和は、自身の着替えを覗き、何をやっても半端な男である樹を目の敵にした。
そしてゆづきは、マイペースに送っているはずの自分の日常に突如入ってきた新米代用教員には、特に興味を示さなかった。
彼らはそれぞれに、まだ何も気付いていなかったかもしれないし、もしかしたら予感くらいはあったのかもしれない。
それは秋から冬へと季節が変わる中、春の気配を感じる、というのに似ていた。
だからもし気付いたとしても、そんなに意識はしなかっただろう。
―これから少しずつ、変わっていく、ということを。
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